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第8回 ILOVE遠賀川流域住民交流会in赤池
9月7日(土)福智町 遠賀川流域住民の会
語り部トーク
大会宣言文

 

 『始まり始まり遠賀川物語』…5名の語り部によるリレートーク

主催者 開会の挨拶:遠賀川流域住民の会・代表世話人/窪山 邦彦 氏

本日はお忙しい中、参加頂きまして有り難うございます。この会もこれで第八回目を迎えます。飯塚の中流域清掃から始まり15年が経ちました。喜ばしい事に人々の輪も徐々に広がりを見せております。しかし、遠賀川の水は一向に綺麗にならず、今年もワースト1位という状況でございます。ワースト1位の理由も様々でございます。他と比べると人口密度が九州で一番高い分、川が汚れてしまうのはごく、当たり前の事かもしれません。しかし、これで良いのか…という事です。

最近では水が2リットルで150~170円程で売られております。この間、飯塚で聞いた話ですが、水道の基本料金が1トン、980円であると。いかに水道水が安いかということです。水道の水を飲料水として飲んだ場合、やはり美味しくないということで、水を汲みに行かれる方も少なくないのではないでしょうか?どうしたら遠賀川の水が綺麗になるのか…。私達住民一人一人が考えていくべき課題ではないでしょうか。現在遠賀川を綺麗にしようと立ち上がった団体が25団体、約2000人いらっしゃいます。しかし、2000人の力を持ってしても遠賀川の水は綺麗になりません。やはり一人一人がどうするべきかという事です。川が汚れる大きな原因の1つは家庭から流れ出る汚水です。その他近年、問題になっている山間部における産業廃棄物。また、ごみの有料化によって河川敷などに家電製品を無断で捨てたりするの問題も起きております。ごみは大雨が降ると芦屋の海岸へと流され、海をも汚れします。これらの問題をどうするか…それを皆さんと共に考えて行く事こそ今回の主旨でもあります。是非、最後まで参加して頂きますよう宜しくお願いします。ご静聴、有り難うございました。

 


   






来賓挨拶:国土交通省遠賀川工事事務所長/田井中 靖久 氏

 本日は第8回ILOVE遠賀川流域住民の会in赤池町の開催にあたりまして、一言ご挨拶を申し上げます。流域住民の会は15年前に飯塚から始まった河川清掃が流域全体に広がりまして、今に至るとお聞きしました。遠賀川を愛する気持ちと個人の連帯感が大きくなって、活動の場を広げて行くと同時に流域全体の大きな要となってきたのだと思いました。25団体の方々がさらに活動の場を広げ、遠賀川全体が良くなっていくのではないだろうか。と、より一層の活躍を期待しております。また、こういった方々の御尽力に対しまして厚く敬意を表することでございます。

水質をみた場合もやはり上流域に比べると、中流・下流域は汚水が濃くなってきます。先ほど窪山先生のお話がありましたように、遠賀川は九州で人口密度の高い流域です。汚水の約6割強は生活系と言われる各家庭で使われる汚水で、3割は自然系と言われる田畑や森林からでる汚水であるという統計が出ました。我々は水質の改善の為、微生物の活動を活発するなどの活動をやっていこうと思っておりますので、皆さんのご協力をして頂けると嬉しく思います。

 最後になりますけど鮭が一匹登って参りました。自然環境が改善してきたのだなという証なのだと嬉しく思いました。これからも次世代の人々の為にがんばっていけたらなと思っております。有り難うございました。

 


来賓挨拶:赤池町助役/今田 一成 氏

 皆さん、暑い中ご足労有り難うございます。町長に代わりましてご挨拶を申し上げます。今回はILOVE遠賀川流域住民の会を赤池町で開催される事を非常に嬉しく思っております。それと同時に大変意義があるなと思っております。また同時に皆々様方に感謝の意を申し上げます。ありがとうございます。遠賀川流域を愛する方々がこういう会議に参加して、河川環境について考える交流会を開くというのは大変素晴らしい事だと思います。赤池町全域で皆様方の事を心から歓迎します。

 皆さん、ご存知の方もいらっしゃるかと思われますが、赤池町はずっと財政難に陥っておりました。予定計画2年かけて財政の建て直しが出来、赤字債権金融団体という言葉から開放されました。また、赤池町は自然の豊かな町でもあります。ボランティア、英彦山川夢の会の皆様が活動してくださったお陰で赤池町はいっそう素晴らしい町へ変わってきております。田川の良い文化を守りつつ、広げていけたら幸いと思っております。最後までご静聴してき頂きまして、有り難うございました。


 

『祝電の儀』

 

司会者:赤池町/徳久 公博 氏

 今回、in赤池町のご開催をお喜び申し上げます。地域にとって大切な川を大切に保護されます。関係各団体の皆様に敬意を表しますと共に、交友会のご盛会をご祈念申し上げます。

衆議員議員・山本幸三様、大任町長・杉原清隆様、田川市長・滝井義高様、中間市長・大島忠義様、芦屋町長・鈴木清吾様以上の方より祝電を頂きました。有り難うございました。

 


1番目:飯塚市/中島 忠雄 氏(日本民族学会の会員として活躍中)

    『碓井町の船着場から東大寺に米を』

 東大寺を建設する際に米を嘉穂郡・鞍手郡から運んでいたという話しがある。米を運搬する際、碓井から芦屋へ運び、芦屋から2艘の船に詰め替えて奈良に運んでいたらしい。途中、瀬戸内海で海賊に出会い合戦の際に碓井からの米を濡らしてしまったという事があったという。仕方なく銭に替えて収めたという記録が残っている。その他奈良の東大寺にて祭りをする際に碓井からの米が届かず、困っていたが遅れて米が届き、なんとか祭りを開催することが出来たという古い記録があるが、出所は不確かである。

その他遠賀川の記録の中で一番面白い事は、福岡城を建設する際に麓から木を切り、秋月の人々を使い、遠賀川から木材を運んで福岡城が出来たという事。他に鞍手郡の古代遺跡にある貝塚を焼いて粉にして石灰を作り、福岡城の白壁に塗ったという記録がある。遠賀川にはその他にも多様な資料が残っている。

 江戸時代は鶏卵、卵、煙草、鮎等が遠賀川から運ばれていたという。芦屋から遠賀川に油粕が運ばれたいた事もあったらしい。何故油粕が運ばれたかというと当時の肥料として大変貴重なものであったからだという。その他に鯨の原油が運ばれ、殺虫剤の役割を果たしていたという。このように遠賀川には多種多様な歴史が秘められている。

 そして我々が忘れてはならない遠賀川と『石炭』の歴史である。石炭は川を汚したという歴史が主となっているが、彷彿線状にして燃料に使われていた時期もあるそうだし、玄界灘では魚を採る為に石炭を焚いたという記録もあるようだ。民俗学者の宮本氏が瀬戸内海で演説をした時の話しであるが、日本で一番美しい瀬戸内海の景観が今現在存在するのは、筑豊の石炭のお陰であると話したという。石炭というと暗いイメージを持たれがちだが、石炭には豊かな美しさがあると皆に知って欲しいと願う。そして私自身、それを確認したいと思っている。遠賀川は『母なる河』として文化を育ててくれた。9月15日嘉穂町で水神祭り等が行わる。その他忘れてはならないのは田川の神幸祭である。神幸祭は大掛かりな祭りの一つである。神幸とは神様に栄えた町々を見てもらう為、連れてまわり感謝する行事である。その他にも遠賀川には沢山の民族文化が存在する。遠賀川を綺麗にしようという思いと、民族文化を育てあげ大切に守っていこうと思う意気込みが大切である。

 筑豊の文化は他にもある。日の丸の朱色の丸は筑豊町の茜で染められたものである。別の言い伝えでは昔、子どもが着物の裾を真っ赤に染めていた。血が流れ出ているのかと驚いたがそういう訳ではない。裾を赤や朱で染めていたという伝説があるという。茜染めとは朱色を何度も何度も染めていく事である。赤色というのは古来より魔除けとして大変重宝されてきた色でもある。漁師が漁に出た際に赤いふんどしをするのも魔除けの一種である。筑豊町から発信した茜という色はこのように幅広く伝説となり魔除けとなっているのだ。筑豊町にはこのような文化がたくさん存在する。筑豊で生きる私たちはもっと誇りを持って良いのではないだろうか。


 2番目:金田町/福田 昌 氏(金田町文化連盟の会長として活躍中)

    『遠賀川は宝の川』

私の祖父は川舟の船頭をしていました。私が幼少の頃、祖父の仕事先についてまわっていました。その際に色んな話をしてくれていた事を今でも鮮明に思い出します。祖父がいうには『10年に一度は大水がでる。50年に一度は大変な大水になる。その時川は海のようになる。』と、言っていました。当時はその位頻繁に洪水が起きていたのです。しかし、遠賀川改修工事が明治から大正にかけてありったので、それによって堤防が出来、少々の水ではびくともしなくなりました。それまではすぐに田畑や民家が流されるという惨事が頻繁に起こっていたのです。その度に住む家を移り変えなくてはならなかったと祖父はよく話していました。

私が20歳になった頃から川舟が非常に沢山必要になりました。日本はヨーロッパに比べると平坦地が少ない為、今でも道路があまり発達していません。むかしは大量の物を運搬する時、川を利用する事が多かったです。川船、その以前はイカダなどに材木、蓄財などを運ぶ。その上に色んな物を乗せて上流から下流に運ぶというような事をやっていたようです。

 つい1ヶ月前に長野先生の講演会がありました。先生は英彦山について研究されている方で、英彦山の歴史などに大変詳しいです。その先生が言うには『英彦山は宝の山だ!』だと言うのです。何故かと言うと英彦山は平安時代頃から山岳信仰で、沢山の木々が鬱蒼と茂っていました。従って水が澄んでいる、つまり下流域に住む農民達の生活を豊かにしていたといえるのです。私自身京都史をちょっとかじった所、小倉藩が納めていた米の3分の1はここ、田川盆地でとれた米だといいます。米は勿論船で運搬されます。

時期としては米を収穫が終わって年度が変わって春頃に運んでいました。そのお米を運ぶ為に赤池に一度集めていたといいます。これは寛永20年に出来たという記録が残っているので明確です。川の大きさに合わせて川舟にも大中小あったようです。10俵(約600キロ)のお米を乗せる場合が小船、25俵(1トン半)のお米は中舟、そして100俵(約6トン~10トン)のお米は大船。その大船は赤池までしか登らなかったといわれています。今度は川から海へと米を運んで行くのですが、川で使われる底の平らな船は、海では使えないので海用に底がブイ字型になっている船を利用していたようです。それは何故かというと川舟だと海の川底につかえてしまうから為です。

 どこの村にも貴船神社がありました。金田では金田七貴船というように現在でも宗教法人として登録されてあるのは七神社あります。貴船はご存知の通り水の神様を奉っているものです。雨を降らせ、雨をやませるという神様で、今でも村では貴船祭りが行われています。昔、川は神である、水は神であるということで大事にしてきました。この宝の川を今も昔と変わらず綺麗な川であるように、私達が力を合わせて守っていきたいものだと思います。

 


(交流会の雰囲気)

 

 

 

 交流会の司会者をして頂きました                    会場の雰囲気写真

 


3番目:直方市/ 牛島 英俊 氏(直方市の歳時館の館長として活躍中)

    『つなぐ川、隔てる川』

直方といえば海王の故郷である。彼が相撲で勝った場合、遠賀川の河川敷で花火が上がるというイベントが2週間ほど催されている。横綱になるかどうかと言われている海王であるが、その海王がもし、もっと地域性のある例えば『遠賀川』なんていう名前だったら…。筑豊という土地をもっとアピール出来たのではないだろうかと思う。名前というと最近の力士の名前は海や山といった漢字はよく見るが川の入った名前はほとんど見た事がない。私達のように会合をする立場の人間としては、もっと地域の川の名前を使った力士が現れてくれると嬉しく思うし、住民の関心が沸くのではないかと考える。

 川というのは生活に多様な影響を与える。例えば川は上流と下流をつなぐといった役割もある。他に私の専門分野である考古学からいうと、一般に農業社会。特に水田耕作などをやる社会では川の上流下流で地域のまとまりが進みやすいようだ。水田というのはご存知の通り稲作の水利、灌漑の調整を上流下流で常にやらねばならない。つまり別々で調整する為、上流と下流は無関係なのだと思い、交流が発達しにくい。つなぐ川は常に上流、下流との調整を通じて地域が1つのまとまりをもつものだ。代表的な例が奈良の大和盆地。沢山の川が最終的に一本にまとまって膨張装備にでるといった地形をしている。こういった所では地域住民がまとまりやすい。従って大和地方の古い時代に大和政権という政治的権力が出来たというのも、川の住民がまとまっていた結果であろうといわれている。つまりこれがつなぐ川である。

 一方隔てる川というのは、直方のように橋が少なく川が隔たりとなって、両側の行き来が難しい土地の事をいう。私の生まれは直方の西側だが、東側の中学校へ通ったら言葉のイントネーションが違ってとまどった事をおぼえている。驚いた事に直方の中でも東と西で言葉が違ってくるのだ。他にも方言といった面で博多方面の筑前、小倉方面の豊前では方言のなまりも違ってくる。これは東西に流れる遠賀川が境目となって分かれているようだと、いう説がある。これはもっと古い時代に遡ってもそうで、弥生式土器を比べても筑前と豊前の弥生式土器のタイプも違ってくるのだ。その境目というのがほぼ遠賀川であると学会でも指摘されている。つまり文化を隔てる川として遠賀川は、古くから我々の生活を支配していたといえるだろう。

 遠賀川とは一体どういった川なのか。幾つか説明すると、よく言われるのが遠賀川は川の長さに比べて主流が広いという事だ。それから上流は花崗岩の地形が多い。花崗岩は非常に風化しやすく、どんどん川へと流れていって土砂となり、川を薄めてしまう。すると川底が上がって洪水の原因になるという厄介なものである。それからもう一つ。遠賀川の性質として一番言いたい事だが、流れが緩やかであるという事。直方より下流は特に流れが緩やかである。どれくらい緩やかかというと直方の市役所から下流の芦屋まで約20キロあるが直方の河川敷の標高が7メートル位。つまり下流から20キロ遡っても7メートルしかない。これを見ても日本の川としては非常に緩やかであるといえる。何故遠賀川の流れが緩やかなのかというと、遠賀川の下流辺りまでは3000年前、入り江だったからだ。それが上流の花崗岩の土砂が流れてきて、浅くなって埋まってしまった。しかし元は入り江なので、洪水が来た際はかつての海とほとんど同じ状態になる。現在国土交通省にある川の深さを描いた地図を見比べても3000年前とほぼ変わりがない事が分かる。

 よってつなぐ川、隔てる川というように広く地域住民に影響を与えてきたのが遠賀川であったといえるだろう。

 


4番目:木屋瀬/野口 靖彦 氏(宿場木屋瀬街づくりの会の広報担当委員長として活躍中)

    『古代から中世にかけ国際交易の拠点であった遠賀川』

遠賀川の地域は中世・古代から江戸時代の初期まで遠賀川を下って、芦屋から海に出て、日本各地や東南アジアなどを相手に貿易をしていた。海には倭寇という大変荒っぽい商売人もいたらしい。この頃の遠賀川の住民は百姓として田を耕すだけでなく、貿易をしていたので割と裕福な生活環境であった為、非常に文化程度が高かったといえる。当時最先端をいっていた中国、韓国の情報が生で入ってくるのだから当然な話でもある。当時、日本国内の中で一番この流域住民が文化人だったといえるだろう。

 その中でも群を抜いて財を保持していたものがいた。それが今回お話する人物である。遠賀川中流域に住んでいたという伊藤(?フルネームが分かりません)だ。彼は貿易の頭領であった人物である。伊藤一味は外へ貿易の手を広げていき、木屋瀬、青柳、博多、そして長崎にも出店をだしたという。しかし博多には他にも商売人がいるもので、なかなか博多豪商の仲間に入れてもらえない。しかし大変な実力を持っていたという伊藤は、秀吉が連れてきた他の豪商を超えてトップに踊り出たという。その証拠となるものが出島のオランダ商館日記に記載されている。日記には以下の様に「伊藤(?)は黒田藩士の一番下に仕え、金七千程持つ豪商なり」と、明確に記されている。当時堺の豪商でもせいぜい一千万ほどしか持っていなかった。七千というと桁が違うのは一目瞭然である。

 最近、ポルトガルのエヴァーという文章家の文章が見付かった。文章に「ポルトガルのシリアスという者にお金を貸してある。ついてはこの後、お金を返済して欲しい」という申し立てが書かれていたという。さらに「本人が来られないならば代理人を長崎に連れてきなさい。話し合いがしたいのだから悪い事はしない」と、いう文章もあったという。これが350年前の日本で存在し、銀行のような役割をしていたとは驚きである。もう1つ客観的な資料が残っている。マカオの商人、ヘスカーという者に金五千両を貸し付けたという。この話からも大変な豪商であったに違いない事がわかる。一方黒田藩は当時破綻寸前の状態だったという。そこで伊藤(?)さんに買い物係を任命したらしい。その名前の通り買い物をする係りという事で、早い話がお金を貸しておけということだ。江戸から単身赴任で来る官僚や、その他黒田藩の役人を長崎で接待するのが伊藤(?)の役割だ。

 これだけの事をこなせる伊藤(?)さんの商い方法は三つ程ある。その1つが米だ。遠賀川は稲作の発祥の地でもある。水も近いし、米を採る器具にも優れていた為、非常によく米が採れた。この米を遠隔地の東北、北陸地方などに売ると高値で売れる。逆にこちらが苦しくなると東北、北陸地方などから米を引き取るようにしていたと記録が残っている。そしてもう1つは鉄だ。なにか器具を作るにしても鉄は重要な役割を果たす。その鉄が福岡藩からは出ない事が大きな差だったといえるだろう。そして最後の1つは焼き物である。上野、高取焼きのほか、幕府しか扱かえない伊万里焼を密輸で世界、または日本で売っていたという。国内国外を問わず、広く貿易をしていたといえる。

 しかし日本も鎖国制度ができ、貿易が禁止されてしまったが伊藤(?)さんはそれでも貿易を続けていた。そんなある日、突然長崎の店に幕府の人間が押し入り伊藤(?)さんを捕まえ、博多では息子も捕まえられたという。合計94名捕まり、その中の32名が死刑になったという重罰だった。

 そして現在、伊藤(?)さんを振り返ると彼は一流の商人だったと私は思う。しかし日本史には1ページも彼の記録が残っていない。彼と同じ地域に住む住民として彼の業績を少しでも多くの人に知ってもらえたら幸いである。

 


5番目:若松区/玉井 史太郎 氏(火野葦平の三男である方)

    『日本の近代史を支えた堀川』

 若松は堀川によって遠賀川と繋がっている。石炭とも勿論繋がりがあり、多い時には7000艘程の船がきたといわれている。若松の町が発展したのは遠賀川と非常に密接な関係であったが故であると考えられる。また堀川から渡ってくる石炭が近代の日本を大きく支えてきたといっても過言ではない。遠賀川から堀川、若松へきたこの石炭は当時の石炭の半分以上を占めていたという実績がある。それは大変素晴らしい事である。若松が石炭によって裕福になると、桁外れなお金持ちというのも存在してくる。中でも市会会議員の佐藤慶太郎(漢字が違うかもです)という人は、東京に上野美術館1つしかないのは寂しいではないかといって、当時のお金で100万円を寄付したという話もある。それぐらい太っ腹な人達が若松には当時はいたということだ。

 玉井金五郎は私の祖父で、マンは祖母になるわけだが、2人は明治39年に若松へやってきた。それまで金五郎は四国の山奥で蜜柑売りをやっていた百姓で、マンも広島の山奥で百姓をやっていた。やはり港が発展すると出稼ぎに若松まできたという。2人が知り合ったのは広島で知り合い、その後若松へ行ったという。この当時若松は吉田磯吉さんが天下を握っていて、民生党でないと商売も出来ないという状況である。それに対抗する金五朗は玉井組を1906年2月に旗揚げした。吉田組から仲間に入れといわれたが、自分の信念を貫いたという。こうして玉井組は吉田磯吉に一線を引いた形で対抗していった。これは道理としては並大抵の事ではなかったと思われる。

 金五郎とマンを主人公にした『花と龍』という小説を葦平が書いているが、その中にもヤクザという文字がよく出てくる為、これはヤクザの小説かという誤解が非常に多い。この間も作詞家の方がきていて、マンを歌にしたというので見せてもらった所「白い素肌に真っ赤な牡丹」と書いてある。金五朗は確かに刺青は入れていたけれど、マンには刺青を入れてないのだけど、こういった誤解がしばしば見うけられる。   その後石炭が閉山するとヤクザといわれる人達も次第といなくなっていった。ヤクザが存在するということはその町が活性しているというバロメータであるともいえる。

 最後に若松を訪れる事があった時は火野葦平資料館に来て頂けると嬉しく思う。

 ありがとうございました。

 


『閉会の挨拶』:赤池町/太田 勝正 氏

 今日は3時間半ほどの長い時間、お話を伺った事だと思います。6名の方のお話、最後の面白い劇。貴重な話を聞けた事だろうと思います。これからは地域活動の中で活かして行ける事が幾らでもある事と思います。今回8回目を迎えまして始めて賛同させていただきました。その上で赤池町で開催という事で私共不安と緊張で胸が一杯でありました。しかし、流域住民の会の皆様のご協力と関係行政規格のご支援を頂きまして、無事盛大に開催し、終わらせる事が出来ました。この場を持って厚くお礼を申し上げます。

 これをもちまして、第8回ILOVE遠賀川流域住民交流会を閉会致します。お疲れ様でした!